【検証・考察】「戦国高校」の舞台は〇〇〇〇年!?
先日、「パワプロアプリ」にて
新サクセスの「戦国高校」が配信された。
「弱小野球部に出現したワームホールはなんと戦国時代に繋がっていた!戦乱の世に野球を広め、太平の世を願うおしるこ姫や仲間たちと目指すは天下統一・・・そして甲子園!」(公式サイトより)
という、とんでもないストーリーである。
ちなみに、このサクセスは
「パワプロ2011決定版」に収録されていた
「戦国時代編」が原型であり、
キャラデザやストーリーなどを引き継いでいる。
しかし、このサクセスを遊ぶうちに
気になることが一つ......
物語の舞台は何年???
なのだろう、と
パワプロ2011の戦国時代編では
天下統一後にペリーが襲来するという
とんでもない展開になるため
もはや時間軸など存在しないようなものだったが、
戦国高校では現代で子孫の登場、という形になっているため
一応、時間軸は依然と比べるとまともになっている。
信長と秀吉が対立していたりと、色々と問題はあるが......
というわけで今回は、歴史上の出来事や
大名、武将たちの生没年などから
戦国高校の舞台がいつ頃なのかを考察していきたいと思う。
(※注意
主は日本史専攻でしたが、戦国時代にあまり詳しくありません。
色々と間違えている所などがあると思いますが
多めに見てください。)
↑かなり長いので、結論だけ見たい方はこちらから
検証① 織田信長の生涯
戦国高校では主人公たちは織田信長に仕え、
天下統一を目指していく。
そのため、信長の生没年は絶対のものとし、
織田信長に関する出来事やその生涯を"軸"にして
その他武将たちの出来事や年代と比較する
という形を取ろうと思う。
まず、織田信長に関する出来事を簡単にまとめると
となる。
そして、サクセス内で甲子園大会前に
「桶狭間を思い出す」といった発言をしているため、
桶狭間の戦いは既に経験していると思われる。
よって、
サクセスの舞台は1560年~1582年
という結論に至った。
割と絞れたが、まだまだアバウトなので
ここから他の武将たちの出来事と比較していくが
はやくも問題が発生してしまった。
検証② 武将たちの生没年について
どんな問題が発生してしまったのか?
それは武将たちの生没年を調べていた時に起こった。
勘助は1561年に亡くなっていた。
......いやいや待て待て。いくらなんでも早すぎる。
これで安易に「1560年~1561年でした」
なんて結論を出せるだろうか、いや出せない。
きっとなにかあったはずだ。
というわけで山本勘助について更に調べてみたところ、
勘助は1561年、あの有名な
「川中島の戦い」で討死したことが分かった。
詳しい事情*1は書くと長くなってしまうため
ここでは割愛する。
しかし、ここでとある可能性に気づく。
サクセス内では、これまでの合戦の形式から
「野球で力を示して屈服させる」
という新たなスタイルになっているのだ。
とはいっても、軍事力の衝突はまだあるが
それでも命のやり取りはかなり減っているとのこと。
つまり、ここから考えられるのは
野球が広まったことにより、
川中島の戦いが起こらなかった可能性がある
という事だ。
野球バンザイ!!勘助、生存!!
というわけで、今後の方針として
・討死はカウントしない
ということにする。そうでもしないと色々と矛盾しちゃうし
そこで、戦国高校に登場する武将たちの生没年をまとめると
- 織田信長 1534年生 1582年没※ 49歳
- 明智光秀 不明 1582年没※
- 豊臣秀吉 1537年生 1598年没 62歳
- 石田三成 1560年生 1600年没※ 41歳
- 徳川家康 1543年生 1616年没 75歳
- 本多忠勝 1548年生 1610年没 63歳
- 武田信玄 1521年生 1573年没 51歳
- 山本勘助 1493年生 1561年没※ 69歳?
- 上杉謙信 1530年生 1578年没 48歳
- 直江兼続 1560年生 1620年没 60歳
- 伊達政宗 1567年生 1636年没 68歳
- 片倉小十郎 1557年生 1615年没 58歳
- 長宗我部元親 1539年生 1599年没 60歳
- 毛利元就 1497年生 1571年没 74歳
- 吉川元春 1530年生 1586年没 56歳
- 島津義久 1533年生 1611年没 78歳
- 島津義弘 1535年生 1619年没 84歳
となった。
(「※」は討死及び処刑)
一番早く生まれたのが山本勘助(諸説あり)、
最も長生きしたのが島津義弘と
色々と面白いが、
ここで気になるのは毛利元就である。
元就は1571年に病没している。
もっとも、高齢だったので当たり前といえば当たり前だが
合戦、野球で勝てても病には勝てなかっただろう。
よって、
サクセスの舞台は1560年~1571年
という結論に至った。
10年以上も縮まり、かなり絞ることができたが
ここから更に検証していこう。
検証③ 明智光秀が家臣になった時期
更に年代を特定するために、
「いつ頃から今の主君に仕えているのか?」
という視点から考えていこうと思う。
とはいっても、先述したように
矛盾点が生じるが、そこは目を瞑ろう。
ここでは
明智光秀はいつから
織田信長の家臣なのか?
について調べてみた。
光秀も信長と接点を持つようになったとのこと。
(ちなみに信長を頼るように助言したのは
光秀だと言われている)
そして、1569年に起きた「本圀寺の変」*3で
光秀の活躍*4を知った信長がスカウトし
義昭と信長の両属の家臣になった、というのが通説である。
よって、ここから
サクセスの舞台は1569年~1571年
という結論に至った。
織田信長の直臣になるのはもう少し後の事なのだが、
元就が病死する前に家臣にさせたいので
今回は1569年説を採用する。
結論
「戦国高校」の舞台は
現在から約450年前の
1569年~1571年である
正直、ここまで絞り込めるとは思わなかった。
それでも、これだと1560年生まれの
石田三成は約10歳で武将になっている
ということになってしまったりと
色々とおかしなことになっているが、
一番、多くの条件に合致しているのがこの時期だったので
許してほしい。(そもそもパワプロ自体ぶっ飛んでるし)
では今回はこれにて。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!
*1:勘助は上杉軍を挟み撃ちにする、いわゆる「きつつき戦法」を信玄に提案するが、上杉軍はその策を見破り、失敗に終わってしまう。逆に自軍が窮地に陥ってしまい、勘助は責任を取る形で上杉軍に突撃し、討死した。
*2:室町幕府15代将軍。元々は僧だったが、上洛し将軍になるために信長を頼った。しかし将軍になった後は信長と対立する。一時は追い詰めたものの京都から追放され、室町幕府は滅亡、最後の将軍となった。
*3:三好三人衆が本圀寺に籠っていた足利義昭を襲撃した事件。信長が不在の時を狙ったが、失敗に終わった。
*4:「信長公記」によると、鉄砲の名手だった光秀は一人で三十騎を射倒す大活躍をみせた。このことがきっかけで光秀は出世する。